日本ブックデザイン賞(JBD)2016は、昨年に引き続き2回目の開催となる秋山孝ポスター美術館長岡(APM)主催のコンペティションである。全国から作品を公募し、今年は625点の応募作品が集まった。第36回美術館大学では、審査委員長の秋山孝、入選者兼スタッフの御法川哲郎、受賞者の高橋庸平氏の3名でJBD2016について鼎談を行った。
御法川は出品者と運営側、2つの立場からJBDの魅力を次のように語った。ブックジャケット部門には課題図書が設定されており、出品者はその課題図書に沿った内容のジャケットを制作するが、同じ図書を選択してもその表現は様々である。自分の作品と他者の作品を比較し、その違いを認識することはより深い理解につながる。また、運営に携わることで教育機関からの大口の応募の多く、JBDはビジュアルコミュニケーションの学習に有効であることに気づいた。大学という枠を超え、全国から集まった作品同士が競うコンペの場は意義があると述べた。
ブックジャケット文庫判部門で金の本賞を受賞した高橋氏は、現在大学院でポスターを専攻している。高橋氏はポスターを専攻する自分がブックジャケットのコンペに出品することに不安を感じていたという。それを解消してくれたのがチェコの画家ヨゼフ・チャペックの著書『本の表紙の作り方』の一節である。「本の表紙はポスターのようであるべきだ」。その言葉で考え方が変わり、ポスターのように表現したという。その高橋氏が語ったJBDの魅力とは、「ポスター美術館が主催するブックデザインのコンペ」だということ。秋山館長はそれを聞き、美の表現であるポスターと、知を詰め込んだ本とは、印刷物という共通項もあり、響きあう関係にあると語った。
質疑応答では、鼎談中に出てきた課題図書という問いかけに対して制作した作品を「解答」と表現したことについて議論が交わされた。果たして「解答」という言葉は正しいのか、また、図書を読まずに描かれた作品は「解答」といえるのかについて問われた。御法川は、解答という言葉だと予め正解が用意されているように感じられるので、この場合は解釈と言った方が相応しいと答えた。高橋氏は、作品を制作する上で図書を読むだけでなくその背景までも研究することの重要性を訴えた。「マッチ売りの少女」の作者アンデルセンの時代、マッチは箱入りでなく紐で束ねられていた。そうした時代背景を調査することは重要であると述べた。質問者は、背景を知れば課題図書への理解が深まり、応募作品に反映することに納得した様子だった。
最後に、秋山は本の今後について言及した。昨今電子書籍が登場し、紙の本の未来が危ぶまれているが、「残るべきものは残る」というのが秋山の考えである。紙の本と電子書籍の両方が住み分けをしながら残っていく。JBDは、今後も開催を重ねながら、趣旨に賛同し共鳴する人々を増やしていきたいと語った。(APM職員・森山)
フランク・ロイド・ライト(1867-1959)は、近代建築の三大巨匠とも呼ばれるアメリカの建築家である。ライトが設計し弟子たちとともに建設した建築工房および共同生活のための建築群のことを「タリアセン」と名づけた。今回の美術館大学ではこのタリアセンで学んだ経験のある建築家、半田雅俊氏から話を伺い、高田清太郎氏、秋山孝館長を交えて鼎談した。
半田氏はまずライトの半生を語った。1867年に生まれたライトは91歳で没するまで激動の時代を生きた。それは馬車から飛行機まで乗り物が変化した技術革新の時代である。3回の結婚を経験し、その中にはスキャンダラスな恋愛もあったため40~60代の働き盛りの時期には仕事がなかった。そんな中、おばの土地を相続したライトが65歳で始めた一種の建築塾がタリアセンである。
タリアセンには「イースト」と「ウエスト」の2ヶ所がある。イーストはウィスコンシン州に、ウエストはアリゾナ州にある。元々はイーストのみだったが、寒さ厳しいウィスコンシン州の冬を逃れるため、冬はウエストへ、夏はイーストへ年2回引っ越すようになった。半田氏が学んでいた頃は、ライトの家族、スタッフ、学生、合わせて70名程が生活しており、食事や掃除などは当番制ですべて自分たちが行った。学生はテーブルの配置を替え、クロスを替え、花を飾るのが仕事であり、そこからレイアウトを学んだ。
半田氏がタリアセンで学んだことの中に「実感を大切にすること」がある。素材に触れることで、その素材の手触り、温かさ、硬さなどを知り、理解することである。タリアセンの学生には家がない。テントが支給され、敷地内に自分でテントを張り、そこで居住する。食事は食堂、トイレ・シャワーは施設内にあるのでそこを利用する。夜間の移動はランプを持って。そうした生活を送ることで学生たちは、寒暖、雨の降り方、日照時間など、環境を知る。人間は冷暖房の利いた室内にいるが、建物は外の環境にさらされている。建物が日々さらされているストレスを自らも実感、体験する。「環境を体験する」「自然から学ぶ」こともタリアセンで学んだことである。室内で作業をしているとスタッフから「こんな天気のいい日に中にいるな、外へ行け」とよく言われたと半田氏は懐かしそうに語った。
高田氏は、仕事がなかった時代のライトが架空プロジェクトを多く立ち上げ、その後仕事の依頼が舞い込むようになってから、それまでの架空プロジェクトを次々と実現していったという半田氏の話に感銘を受けていた。仕事がない時期にも蓄積されるものがあるというライトの生き方に感じるものがあったようだ。
秋山館長は東京・池袋の明日館について、大谷石という柔らかい石が使われている理由を半田氏に尋ねた。室内には石がへこんでいる箇所もあり、建物に使用するには難しい素材なのではないかと感じていたという。半田氏は次のように答えた。大谷石は海底で泥などが固まってできた石で、石とはいえないほど柔らかい。ライトは帝国ホテル設計も手がけたが、その際日本中の石をサンプルとして集めさせていた。そのときの知識を活かし、彫刻しやすく生産地が近い大谷石を選択した。コストが抑えられることも重要なポイントだった。秋山館長は、明日館は一般的で安価な材料をうまく組み合わせて建物を美しく見せていると述べた。
最後の質疑応答の時間には多くの質問が寄せられた。中でもライトの人柄がわかるような逸話をという要望に対し、半田氏が語った話が興味深い。半田氏はアメリカに渡ってライトが各地に残した建物を見て回った。その中には既に観光施設のようになっているものもあれば、誰かが住み続けているものもあった。そこで感じたのは、ライトの建物は誰かが住み、生活感のある空間の方が優れているということであった。通常我々が建物を公開するとき、そこに生活感は排除して公開する。その方が美しく見えるからである。しかしライトの建物は生活感があって完成するような魅力があったという。秋山館長は、住む人のことや建物のことを考え続けた創作者の情熱の力がそこにあると述べた。
また、この日は秋山館長から喜ばしい報告があった。秋山孝ポスター美術館長岡(APM)が正式に有形文化財に登録されたことである。ライトの建物のように、今後もAPMが長く愛される存在でありたいと思う。(APM職員 森山)
元来文字というものは、古代人によって残された「殴り書き」のような痕跡から始まり、しだいに絵として認識され、具象的な形から抽象的な形へと変化しながら現在の形となった。文字は元々イラストレーションであったのだこの事を理解することがとても重要であると秋山は語る。
また、コンピューターの発明により、人間の手では描けない数学的な「点」や「線」(ペジェ曲線、円、楕円)が出現した。それら幾何図形とは違う、脳と筋肉の指示によってできる形にはエネルギーがあり、それこそ人々の心に入り込む能力があると秋山は考えている。その他にも、「カニッツァの三角形」や「エーレンシュタイン錯視」などの錯視効果も例にあげ、「形を失う形の活用」的思考を解説した。
これらのことを踏まえて改めて秋山の作品をみてみよう。まず、「越後百景・佐渡島」の作品。佐渡島の上空に描かれる天の川を拡大する。描かれた星の形はひとつとして同じ形は無い。もし、この形が全て幾何図形の円で描かれていたらどうだろうか。きっとこの作品の魅力は半減どころかまったく無くなってしまうのではないだろうか。また、作品「Bort-River(修了展2016)」では、線で描いているようにみえるが、これまた拡大してみてみる。「ユーグリット原論」にのっとると、黒の色面と黄土色の色面の境界こそが線であり、そこには複数のエレメントが存在しているのだ。そこに気がつき、意識するかどうかがとても重要なのである。これがまたペジェ曲線のような幾何図形的線であったら、とても気持ち悪いと秋山は強く主張する。透視図法と同様の不快感を与える。それはなぜであろうか。数列的な図形や線は「平均値」で描かれているからであると秋山は結論づけた。
話は秋山の幸福論にまで及ぶ。絶対的幸福を求めるアランの幸福論を秋山は、辛い修行のようだと感じ、「幸福はほどほどで良い」という結論に辿り着いた。それはアランの幸福論から逃げているのではなく、むしろ自分の方が更に幸福であるということを深く考えるという、正に「形を失う形の活用」的思考であるという。
講演の中で何度も「素晴らしい」「美しい」という感情的な言葉が登場し、秋山の情熱をバシバシ感じる講演であった。進行役の堀池助手は、人々が当たり前に捉えている物事に疑問を持ち、その根本になるものをまず理解しようとする秋山の情熱が魅力に繋がっているのだと感じたとまとめた。講演中、秋山は学生へ向けて、性能の良いルーペを買いなさいと諭した。何事にも真剣に向き合うと、見えないものが見えてきて、そのものの本質や秘密が見えてくるという。秋山の神秘の根源は全てそこから始まっているのであろう。
講演の最後に「面」についてはどうなのかという質問が出た。実はそれは「秋山孝の神秘」シリーズの次回のテーマである。次回への期待を膨らましつつ、第34回美術館大学は幕を閉じた。(たかだみつみ・APM事務局長)
5月28日(土)に開催された第33回美術館大学は、前回の第32回美術館大学と対をなす講演会である。前回のテーマは「登録有形文化財について」であり、秋山孝ポスター美術館長岡(APM)の建物の価値、意義について講演した。今回は「創作者における宮内・摂田屋百景の魅力について」をテーマに掲げ、宮内・摂田屋地域の魅力を創作者の立場から講演した。講師はAPM館長・秋山孝(多摩美術大学・教授)、堀池真美助手(多摩美術大学)、大町駿介助手(多摩美術大学)の3名が務めた。
導入として秋山館長が美術館大学の7年間の足跡をたどり、今回の美術館大学に一般の参加者だけでなく、多摩美術大学大学院生、長岡造形大学生といった学生の姿が多く見られることに感慨を示した。多摩美術大学の大学院生には、日本人だけでなく外国からの留学生の姿も多い。物事には多様性が重要であり、一般と学生、多摩美術大学と長岡造形大学、日本人と外国人といったさまざまな価値観、環境の人々が同じ時間を共有するための場所としてAPMを提供したいと語った。
次に、秋山館長、大町助手が建物を題材に作品を描き続けた画家について紹介した。秋山館長は向井潤吉を例に挙げた。向井潤吉は1901年に生まれた洋画家である。古い民家を描き、「民家の向井」と呼ばれた。その作品の中には長岡市川口(旧 北魚沼郡川口町)を描いたものもあった。板壁と石置き屋根が並ぶ様子は当時の川口におけるごく普通の街並みで、特別変わった建物の姿はそこにはない。ひなびた地方の風景が描かれているだけである。作品発表当時は抽象画の評価が高かった時代であったため、向井の作品は批判を受けた。しかし、後年その堅実で真摯な作品制作への取り組みが認められ、理解されるようになったという。続いて大町助手は、今和次郎と岡鹿之助について言及した。大町助手は、省みられることの少ない建物に魅力を感じ、描き続けた両者を比較研究した。今和次郎は「日本の民家」等を著した民俗学研究者である。東京美術学校(現 東京藝術大学)図案科出身で、日本の日常に根ざした住宅、いわゆる「民家」を文章とイラストレーションで記録した。それまで見向きもされなかった「民家」を題材とし、そこに美しさを見いだしているところが非常に魅力的であると語った。対する岡鹿之助は、同じく東京美術学校の西洋画科出身の洋画家である。灯台や信号台、発電所などを描いた。このような建物は人目に触れたり親しまれたりすることは少ないが、そこに魅力を感じ制作している。生活の場ではない特殊な建物もまた、やはり人々に省みられることがない。岡の述べるところによれば、「自分の画風に堅牢さを持たせるために」古い建物の美しさを援用したという。
続いては堀池助手が自身の創作について語った。堀池助手は、何かを描くときというのは心が動いたときであるという。それは、対象物やモチーフ自体に魅力を感じることもあるが、個人的な思い出とつながっていることが大きいという。例えば出品作品の「サフラン酒造」。2009年のAPMオープン時に初めて訪れた宮内・摂田屋で、恩師・秋山館長の大学卒業制作作品を初めて見た感動が、鏝絵蔵への感動と結びつき、表現したいと思ったという。他にも、宮内で初めて宿泊した旅館とその女将さんへの思いを込めた「五十嵐旅館」や、仲間と訪れた春の穏やかな思い出を描いた「光福寺」など、そこには必ず自身の心の動きがあると語った。堀池助手の話を受け、秋山館長はその心の動きを「思い出の美的感覚」と表現した。創作者の心の動きによって作られた作品には、言葉では説明できない真実感が備わっている。それを大切にしたいと語った。
秋山館長は、「人が何も思わないところに何かを発見できる力」を持っているものが創作者であるという。人々が気づかず通り過ぎるようなところに心を動かされ、それを表現し、伝える力を持つものこそ創作者である、と。この「宮内・摂田屋百景シリーズ」でコレクションされた宮内と摂田屋の情景を描いた真実感のあるポスターの数々は、次の世代へと繋がり、また新たな試みへと発展していくだろうと語った。(APM職員 / 森山)
国の文化審議会が、秋山孝ポスター美術館長岡(APM)本館の建物を登録有形文化財に登録するよう、文部科学省に答申した。(2016年3月12日付新潟日報・朝日新聞掲載)これに伴い、2016年度最初の企画展は「宮内・摂田屋百景展2」を開催し、初日の第32回美術館大学のテーマは「登録有形文化財について」とした。講師には、登録有形文化財に精通している平山育男教授(長岡造形大学)と宮内・摂田屋地域の建物の魅力を研究している大町駿介助手(多摩美術大学)を招き、APM館長・秋山孝(多摩美術大学・教授)の進行で行なった。
前半は平山教授が資料や画像を用いながら、国の登録有形文化財について講じた。平山教授は2日前から続く「熊本地震」に言及したあと、本題に入った。そもそも登録有形文化財というものができたのは、地震の影響があるという。震災などが起きた場合、国宝や重要文化財に登録された建造物は状況を把握しやすく、適切な対応が可能であるが、それに満たないこれから重要文化財になるであろう登録候補の建造物を守るために、登録有形文化財が1996年(阪神淡路大震災の翌年)に設けられた。登録する為の必要条件は築後50年以上であるということだ。その上で、国土の景観に寄与していること、造形の規範となっていること、再現することが容易でないこと、などの十分条件が加わってくる。
宮内・摂田屋地区にはすでに6件の建物が登録されており、APMが晴れて登録されるとこの地域では7件目となる。この地域の登録有形文化財の特徴は、生業に基づいた建物であることが挙げられる。摂田屋地区は醸造業が今も盛んであるが、それぞれの生業の特徴が建物に現れており、それがそのまま建物の特徴となっている。APMの建物も現在は美術館だが、かつて銀行であったことが今の姿からも見ることができる。有形登録文化財は、建物の経歴・美しさ・特徴を残しながら、上手く補修・補強し、使いながら保存をしていくことが重要なのだ。未来に向けて文化財は地域と共にあるべきであると平山教授は考える。建物自体がその町のありかたを表現しており、それを上手く伝えることが建物が町に愛されることに繋がる。すると、人々が興味を持つ魅力な建物となり、町の魅力となるのだ。
続いて平山教授は、APMの登録申請までの道のりを5W1Hを用いて説明した。この6つの要素を明らかにする作業は、建物自体に残る痕跡や当時の新聞等、手がかりになるものを探すところから始まり、ひとつひとつ分析し、根拠を見つけ出し、証明するという地道な作業の繰り返しであることが、平山教授の説明からわかった。
次に話題は大町助手の研究へと移った。大町助手は宮内・摂田屋地区の建物の特徴を分析し、イラストレーションにするという研究を行なっている。大町助手は、この地域の建物の中で登録有形文化財にしたい建物は「堀時計店」であるという。その魅力は「普通だから」だという。普通にそこにある建物が、使われながら保存されている姿に大町助手は魅力を感じるのだ。時に補修が過剰になりすぎて魅力が半減してしまっている建物を見ると悲しくなる。大町助手は、「修繕の跡は建物の年輪である」と語り、堀時計店はそれが美しく現れているという。
最後に秋山は、建物の価値を分析・証明してくれる人、支えてくれる人、実行してくれる人、活用してくれる人がおり、その先に新たなものが生まれることを期待しているとまとめた。これからも多くの人の支えのもと、地域と共にAPMの建物が愛され続けることを願っている。(たかだみつみ・APM事務局長)